プロフィール

子どもの不登校 引きこもり に悩むお母さんへ

心配のあまり、ついとがめるような口調になってしまって後悔
そっと見守ろうと思う一方で
このまま放っておいたら…という心配も拭えない
どうすればいいの?
私の何が悪かったの?

子離れ・親離れができている自信がありました。
子どもとの間の信頼関係にも自信がありました。
なので、私にはカウンセリングなんて必要ないと思ってました。

大学では教育心理学を専攻し
社会に出てからはずっと教育に関わってきました。
子どもと親の想いのズレに心を痛め
寄り添いたいとカウンセリングを学びました。


そんな私がなぜ・・・

はじめまして。
良い母から卒業すれば家族みんなが幸せになれる
90日 幸せ子離れレッスン
心理カウンセラーの 玲華(れいか) です。
カウンセリングを行う上で、あなたとカウンセラーの相性はとても大切です。
ぜひ、プロフィールをお読みいただき
少しでも私について知っていただければと思います。

■威圧的な父の元、それが当たり前だと思って育つ

見栄っ張りで、いつも母や私たち子どもを見下していた父。
思うようにいかないと大きな声で威圧するだけ
食器やお箸が飛んできたことも一度や二度ではありませんでした。
結婚をして家族を持ったのも、社会人としての体裁を整えるため。
大切なのは、自分と自分の親兄弟だけでした。

「生命保険なんか、俺が死んでお前らが得するだけや」
「娘なんか、お金をかけて育てても、どうせ出ていくから損なだけ」

何かを買って欲しいと思うこともありませんでした。
そんなことを言っても無駄だということはわかりきっていたので
欲しいという感情に蓋をしてしまったのかもしれません。
とにかく父に期待することは何もありませんでした。

年頃になるにつれ、母へのエスカレートする父の暴言に殺意を感じるようにさえなりました。

■いつも優等生でいなければならなかった小中学生時代

中学生のある日、みんなが面白おかしくおしゃべりをしている中、私も一緒になってふざけたことがありました。
一瞬の間のあと、当時一番仲の良かった友人が
「なんで(あなたが)そんなことするの?」
それは決して非難ではありませんでした。

いつも一緒にいて、みんなの様子を見てニコニコ笑っているのが私だったんです。
私は常にまじめで良い人でいなければなりませんでした。

■物心ついた頃から決めていた『先生』に

何がきっかけだったのかはわかりませんが
物心ついたころから、私は学校の先生になるものだと思っていました。
今思うと不思議なのですが、私の中では“希望”ではなく最初から“決まって”いたんです。

ですから、進路に迷うことも他の職業について考えることもなく教師になりました。
もちろん大変なことも多々ありましたが、それも含めて毎日が充実していました。

■先生の代わりはいくらでもいる…結婚を機に退職

同僚の先生たちが
「子ども(保育園児)が熱を出して預かってもらえないから、家で一人で寝させてきた」
と言いながら、担任している子どもたちの些細な(時には“くだらない”)トラブルに対応している姿を何度も見聞きしました。

病児保育はもちろん学童保育もまだ一般的でない時代。
わが子にはそんな思いはさせたくないとの思いが強まり
結婚を機に、あんなになりたかった『先生』を辞めて家に入ることを決めました。

温かい家庭をつくりたい。
私の想いはただそれだけでした。

■刷り込まれた“良い嫁“”良い母”像

義母は既に他界していたので
義父と義父の母(義祖母)、そして私たち夫婦の生活が始まりました。
田舎の旧家。
家族からは何の制約も要求もされることはありませんでしたが
母を見て育った私は無意識のうちに
“嫁とはこうあるべき”“母とはこうあるべき”
と刷り込まれていました。
田舎での同居、周りはもちろん婚家の味方です。
何の縁故もなくどこの馬の骨ともわからない私は、好奇の対象でしかありません。

当時はバブル真っ盛り。
仕事にアフター5にと華やかな生活を送っている友人たちとは生活のサイクルも違い
次第に疎遠になりました。
嫁として母として妻として…“私”のない毎日のなかで
『先生』より子育てを選んだことが
無意識のうちに自分へのプレッシャーとなっていました。


立派な子育てをしなければ・・・


■長男もまた優等生…

長男は近所からも心配されるほど、とにかくよく泣く子でした。
その声は火が付いたかのようで
今なら虐待として通報されていたかもしれないと思うほどです。

ある日、TVで流れていた童謡「ちいさなキタキツネ」を聞いて
目を潤ませながら私にすり寄ってきました。
感受性が豊かな子なんだと思いましたが
豊かというよりは強すぎたのかもしれません。

HSP
今思えば、心当たりだらけですが
そのような概念が知られるようになったのは最近のことなので
診断を受けたわけではなく、もちろん本人と話したこともありません。

幼いころからしっかり者で、世間でも評判の『良い子』だった長男。
学校でもいつも優等生で“できて当たり前”でした。
中学生の時の担任は、クラスでもめ事が起こると「なぜもめさせるのか」と長男を叱ることも。
それが原因かどうかは不明ですが
中学3年生の後半になると、登校を渋る日が目立ち始めました。
けれども、何度か欠席しながらも長期にわたって休むことはなく卒業しました。

高校・大学時代はそれなりに楽しくやっているようでした。
友だちが遊びに来ることもしばしばで
自分たちでフットサルのサークルを立ち上げたり、音楽バンドを組んだり。
いわゆる学生生活を謳歌しているようでした。

通学のために家を出て一人暮らしをするであろうことは
親も子も早くから意識をし、何でも自分でさせてきたので
特に心配することもありませんでした。

■引きこもり~考えたくなかった現実

これから就活が始まろうという秋、リーマンショックが起こりました。
採用内定の取り消しが話題になり
次年度の新規採用が軒並み見送られました。
学生たちの多くは
・とりあえず、どこでもいいから就職する
・わざと留年する
の2組にわかれました。

長男はそのどちらでもなく
しばらくアルバイトをしながら社会経験をつんで
本当にやりたいことを見つけたいと言いました。

『会社の名前や肩書きではなく、自分がやりがいを感じられる仕事をする』
当時ビジネスや自己啓発等の講座に参加していろいろ刺激を受けていた私には
反対する理由などなく、頼もしくさえ思いました。

アルバイト探しが始まりました。
若い雇われ店長や面接官のレベルの低い言葉や理不尽な仕打ち等々
予想外の厳しい展開に次第に長男の心は壊れていきました。

思いの丈をぶちまける手段が他に無かったのでしょう
不安や不満で埋め尽くされた長い長いメールが頻繁に届くようになりました。

社会に対する憤り、人生に対する絶望が
“こんな自分に育てた”私への恨みに変わっていきました。

何を言っても反発。
私を否定しさげすむ。
これでもかというようにどんどん暴力的になる言葉。

長男からのメールが届くたびに心がえぐられる思いをしながら
そんなメールの数々にタイミングを逃さないよう、言葉を選び、慎重に返事を重ねました。
あまりの荒れ様に
自棄になって犯罪に巻き込まれてしまわないかと恐れながらニュースを見る毎日。


しばらくして、どこまでも信じて応援したいと思う私の気持ちも届くことなく
連絡が途絶えました


どうすればいいのかわかりませんでした。
下宿先まで何度足を運んでも
部屋のインターフォンがなることはなく閉ざされたまま。
何度も折れそうになりました。
もう限界かもしれない…。

でも、諦めることは見捨てること
そんな選択肢はありません。
それならいっそ誰かに迷惑をかける前に…。

もし、子どもが長男だけだったら私は踏みとどまることができたかどうか。


ある日、久しぶりにメールが来ました。



『もう逝きます』

■1本の電話カウンセリング

幸い未遂に終わったものの長男の心はさらに閉ざされました。
私は何を考えどんな毎日を送っていたのだろうか…全く記憶にありません。

長男をこれ以上傷つけないことしか考えていませんでした。
腫れ物に触るようにどころか、離れて見ていることしかできませんでした。

ひょっとしたら長男が自然に心を開いてくれるかもしれない
誰かが何とかしてくれるかもしれない
まだ心のどこかで期待していたのかもしれません。

一方で、そんな都合のいいことなんて起こるはずもないことはわかっていました。

どうしてたどりついたのかいきさつも何もわかりませんが
1本の電話を掛けたことだけ覚えています。
当時はまだあまり多くはなかった電話カウンセリング
そこでカウンセラーさん自身と息子さんの経験談を聞きました。

どのくらい話したのか、他にどんな話をしたかは覚えていません。
ただ、私にはとてもショックな内容でした。

電話を切ってどのくらい経ったでしょうか。

『私が変わるしかない…』

母親として覚悟を決めました。

■ 子どものことで悩んでるつもりが、すべて私の問題でした

彼が繊細であることには小さい頃から気づいていたのに
どうしてもっとしっかり向き合わなかったのか。
優等生として育つしんどさを人一倍わかっていたはずなのに…。

遅くとも中学生の頃には明確にSOSを出していたにもかかわらず
ギリギリのところで(不登校にならずに)頑張る長男に甘えて
何事もなかったかのように過ごしてしまったことを後悔してもしきれません。


いくら何を学ぼうとも、ただのお勉強にしか過ぎず
長男との信頼関係に自信があった私は、自分事として捉えようとはしませんでした。


あの電話カウンセリングから10数年、
長男はもちろんすんなりと社会復帰ができたわけではなく
メンタルが堕ちると体調を崩し、それでまた自信を喪失して…の悪循環。
過敏性腸症候群を始め病院や薬と縁が切れたことはありません。
そのためか、生活費の援助要求も頻繁にありました。

体調不良と聞くと
“一緒に住んでいれば食事にも気をつけてやれるのに…”
と、いてもたってもいられなくなり

お金を要求されると
無駄遣いをしているのではと
先々の不安でいっぱいになります。

連絡が来るたびに、胃が締め付けられる思いでした。

自立しようと頑張っている長男を信じて見守ろうと頭では思っていても
心は、心配と信じることの境界線を行ったり来たり
必死で足掻いていました。

そんな時、ふとあの1本の電話を思い出しました。
また、同じことをしてしまっていたんです。

“変わろう”と決心したあの日から状況は大きく変わったものの
私の内面は根本的に変わりきることはできていませんでした。

長男が問題なのではなく私自身の問題なんだ

そう気づいたら、身体の力が抜け
不思議なことに、長男からの重苦しい連絡は来なくなりました。

■お母さんが変われば子どもも変わる

長年、子どもの教育に関わり
カウンセリングをはじめ様々なセラピーを学んでいたにもかかわらず
自分のこととなると何も活かせないどころか
まったく見えなくなってしまっていました。

一度は気づいて変われたと思っていましたが
いつの間にか元の凝り固まった私に戻っていました。

ひとりで変わることは思う以上に難しいことなんだと痛感しています。


私のように遠回りしたり、ひとりでもがき苦しんでいる人が
本当に大丈夫だと思えるまで寄り添いたい。
その想いで、カウンセリングを再度深く学び直し今に至ります。


何事もやり直すのに遅すぎることはありません。
とはいえ、もっと早く一緒に暮らしている間に何とかできていれば
ぎゅっと抱きしめることもできたでしょう。
とことん話し合うこともできたでしょう。
そうすれば、もっと何の遠慮もわだかまりもなく話し合える関係でいられたのではないかと思ってしまう私もいます。


どうかひとりで頑張らないでください。
親として心配のあまり感情的になって怒ってしまうのは誰にでもあることです。
冷静に判断できなくても何も恥ずかしいことではありません。
立派な親でなくていいんです。


まずはあなた自身がそのままのあなたを受け入れられる安心の土台をつくりましょう。
そして、不安やイライラに振り回されることのない毎日を手に入れましょう。

あなたとあなたの大切なお子さん、そしてご家族が幸せになるために
一歩を踏み出してください。


『お母さんが変われば子どもも変わる』

あなたが笑顔になるためのお手伝いをさせていただきます。